広げる話・収束させる話を使い分けて会話を楽しみたい!

広げる話・収束させる話を使い分けて会話を楽しみたい!

人間、生きていると誰かと話をするものです。そんな中で日々思った事をまとめます。

今回は、広げる話と収束させる話、場に応じて切り替えると良いと思うし、特に仕事でもない時は収束させる話に持って行って結論を急がなくてもいいんでないの?というお話です。

広げる話と収束させる話

話を始める前に、この記事の中で使う言葉の定義をします。

まず「広げる話」とは、会話の場に登場した話題を発散させる方向の会話の進め方とします。例えば、アフタヌーンティを楽しみながらあーだよね、こうだよねと話を会話を通じて時間を過ごす事を楽しむ状況を想像して下さい。また、会話に参加している人同士で人となりを知り、そして快楽を得る事ができます。

続いて「収束させる話」とは、会話の場に登場した話題を収束させる方向の会話の進め方とします。例えば、仕事中に催される会議において、決まった時間の中で結論を導き結果を出す状況を想像して下さい。また、会話に参加している人同士で問題解決を行い、各自の使命をより明確にする事ができます。

仕事じゃないのに話を収束させてしまうのはつまらない

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ふとした会話なのに、話を収束させられてしまう事があります。言い換えれば「確かにあんたが言う事は正しいよ、でもその話がしたいんじゃないんだ僕は!」って状況です。これは、直接の会話ばかりでなく、 Facebook などのテキストベースの会話でも起きています。

「〇〇だから××、故に△△。」全くその通り。わかる。でも、それ以上続かなくないですかね。また、否定しちゃうともそこで終了です。例えば、「ベトナムはいい所だ、飯もうまいし旅費も安くてさ〜」と切り出したときに、「いや、私はいやだった。航空会社は〇〇航空に比べてサービスが悪く、現地は感染症も日本に比べて多い。」としたらどうでしょうか。もちろん論理的に反論する事はできると思います。しかし、ここではどちらかに結論を収束させるのが目的ではないので、僕がこの話題を切り出したならその会話は打ち切り、別の話題を出します。

僕が求めているのは、「ベトナムはいい所だ、飯もうまいし旅費も安くてさ〜」と切り出されたときに、「おお、フォーってのがあるらしいけど、あれはうまいのか?」や「そりゃいい、俺も行きたい!」と、話が広がるよう更に盛り上がるように掘り下げることです。さらに、近い経験をしたなら「実は俺も行った事があって、××ってのがよかったぜい。」とより話を豊かにしたり、論理的に「ベトナムは日本よりコーヒーが△割安くて良かったよ!」と話しつつ相手がより理解しやすい形になっていたら、更に楽しいなと思うのです。

その中で、会話の相手がどのような体験をして、価値観を持って生きている事を知り、そして楽しい時間を過ごせたら最高だなと考えています。

ちなみに僕の中で例外がありまして、その一つが思考実験です。例えば「情報教育において指導する先生が不足しているが、それを解決するにはどんな手だてがあるか?」という話題が当てはまります。これは、論理的に展開しつつ結論に向かって会話する事を楽しみにやります。とはいえ、人となりを知り、快楽を得る点は変わりません。

仕事なのにだらだら会議も良くない

逆に、仕事中にダラダラ会議をしてしまう人がいます。これは、話を収束させるために論理的に物事を整理する事が足りていないのが一因ではと考えています。

時々、論理は相手を攻撃するための道具だと誤解されている事があるようです。僕は、論理は会話する相手に対して再現性を持って伝えるために必要だと考えていて、攻撃に使うものではありません。また、人は一人一人違う事を考えていますから、自分が何を考えていてどうしたいと伝えるためには、感情だけでは理解されるものでもありません。

会議はコミュニケーションを楽しむ場ではなくて、集団で物事を推進するにあたって意識をあわせて次の段階に進むために必要な工程だと、僕は理解しています。その中で、漫然と話を広げて会話をするのはあまり賛成できません。とっととコード書くなり、企画を熟成させるほうに力を注ぐほうが生産的です。

尚、効率の良い会議の手法自体は様々な所で語られており、ここでは述べません。

やばかった自分の20代

実は、平時の会話を収束させてしまう状況は、20代の自分によくありました。どうしてかなと、今振り返りますと次の点があったのだなと思います。

  1. コンプレックスが強かった
  2. 会話には勝敗があると思っていた
  3. 日々を楽しむ視点がかけていた

1は、その頃は高卒でして、大卒相手に仕事をする際に絶対に負けたくない!という気持ちが強すぎたのでしょう。だから、会話中に負けないように「私はあなたよりも〇〇を良く知っている(という趣旨の話)」や「いやそれは違う」などと言ってしまいがちでした。ちなみに、大学院を出たときに、これはなくなりました。

2は、1にも続いてやってしまっていました。だから、相手が腹立ったからこいつの鼻っ柱をへし折ってやろう!となったときに、逆に悔しい思いをして会話を終えてしまった事もありました。

3は、仕事ばかりの事を考え、そして休み無く仕事をしていたせいか、一緒にいる人と楽しく時間を過ごそうという視点に欠けていました。これでは、少しでも僕の事を面白い人だな!と感じてもらえたとしても、その後にテンションをダダ下がりにさせてしまっていたかもしれません。

あと、こうしていると、なぜか疲れてしまうんです。気を張っているし、楽しんでいないからなのでしょう。勝ち負けだけで物事を捉えてしまうと、辛いだけですね。

そんなこんなで、仕事こそちゃんとやっていたつもりですが、私生活ではあんまよい感じじゃなかったなー、と33歳になって振り返っております。まだ、残ってたら指摘してやって下さい。

平時は会話を楽しもうぜ

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では自分が広げる話と収束させる話を意図して切り替えるようになったのは、昨日今日ではありません。よく行くバーで飲みながら他のお客さんと話したり、普段とは違う領域・組織の人と付き合う中で、徐々に醸造されたものです。

そうしていると、特に私生活では自然と疲れづらくなった気がします。というのも、悪い人じゃないんだけれど無理に付き合う事も無いかなー的な人と、話してて楽しいし自分が気持ちよく付き合える人が自然と見えてきて、やりやすくなりました。

あと、僕の場合だけかもしれませんが、気持ちよく付き合える人と仕事をすると、不思議とうまく結果が出せるように感じます。単に恵まれているだけかもしれませんが、その率が上がっているのは僕にとってとても有益です。そして、相手にとっても有益であって欲しいと願います。

なお、改めて申し上げますが、どの場面においても論理的思考・説明を否定するものではありません。広げる話の場合と、収束させる場合で、使い方を変えるといいんでないの?と言いたいのです。

ということで、広げる話と収束させる話を使い分けて、特に仕事以外の平時では広げる話を通じて交流を深めるのが楽しくてよくね?というお話でした。

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