【シムエントリ】エントリ抽出条件を変更しました
シムエントリご利用の皆様へ、2つのお知らせです。
これからご案内する変更は、本日の明朝のアップデートより反映する予定です。
■1KB以上のエントリのみを関連記事として表示します
類似記事一覧に表示するエントリを、1KB以上のデータを持つエントリにいたします。
また、1KB未満のエントリは類似記事を表示することはできますが、他のブログの類似記事としては表示されなくなります。
これは、シムエントリが「代表キーワード」を用いて記事を検索している特性上、記事の本文が短い≒用いられる単語が少ない記事が優先して表示されやすい背景があったためです。
※DBを調べたところ、10%程度のエントリが1KB以下のエントリでした。これは、本文引用形式のRSS記事も含みます。
■記事の保存期間を30日に引き延ばします
7月6日より、記事の保存期間を7日設けることで更新が早いブログでも記事が残るようにしておりました。これを、本日より30日に引き延ばします。
これにより、更新が早い(1日1記事以上の)ブログを運営されている方は、以前より記事が残りやすい状況になります。
RSSフィードの登録受付も引き続き行っております。下記からどうぞ。
http://se.koemu.com/
最近読んだ本 … 『ソーシャルキャピタル』ほか
今日もいくつか本をご紹介したいと思います。
まず一冊目は、昨今切っても切れないお話をアカデミックな視点でまとめられている本をご紹介します。
私自身、『ソーシャルキャピタル』(=社会関係資本)と言う言葉を知ったのは昨年の4月(『産学・伝統・そして…ご縁』に詳しく残しています)。そして現在、mixiに始まる人のつながりを活かしたWebサービスが雨後のたけのこのようにリリースされています。
しかし、人のつながりの価値とは一体何者なのでしょうか。体系的に語れる人はいるのでしょうか。ましてや、ソーシャルグラフ(いわゆる「友達一覧」)を最大限に引き出すWebサービスは現在存在しているのでしょうか。
そんなことを、様々な研究を基にして現在わかる範囲で体系化されたのが、こちらの本です。
一部をご紹介します。
社会関係資本への見返り
命題1: 社会関係資本と行為の成功とのあいだには、正の関連がある。
命題2: 初期の地位がよいほど、行為者はよりよい社会関係資本を獲得しやすく、またそれを用いやすい。
命題3: 紐帯が強いほど、社会関係資本は表出的行為を成立させやすくなる。
命題4: 紐帯が弱いほど、道具的行為にとってよい社会関係資本へのアクセスがしやすくなる。
命題5: ネットワークにおけるブリッジの近くにいる個人ほど、道具的行為にとって有効な社会関係資本へとアクセスしやすい。
命題6: 道具的行為にとって、位置の強み(ブリッジへの近接性)はブリッジでつながれる集団間の保有資源の違いにより変わってくる。
命題7: ネットワーキング(紐帯あるいは位置)の効果は、行為者がヒエラルキーの頂上付近にいるか、底辺付近にいるかと言ったヒエラルキー構造により制約される。第I部 理論と研究 P.78~P.97 より一部引用
内容をぱっと見ると、書かれ方がアカデミック(かつ言葉の定義も理解する必要がある)なのでちょっととっつきにくいです。ただ、それに関する記述を読み解くことで、これが現実、そしてソーシャルWebサービスで実際に起こっている話と徐々に、そしてそれが強烈に脳の中で結びついていくのがわかります。
この本ですが、最初はまとめのところを読んで「何を話しているか」をまず理解し、その後でじっくりかつ何回か本文を読み解いていくとよいかと思います。
Webサービス開発を行っている方々に、ぜひオススメしたい本です。
続きましては、宗教的ですが宗教ではないお話です。
■約束された場所で―underground 2 (文春文庫)
村上春樹さんのノンフィクション。『アンダーグラウンド』の対極にある本です。対極とは、すなわちオウム真理教に所属していた人々を取材した本なのです。なぜ、オウム真理教に入信したのか、取材時点では何をしているのか…。ニュースではあまり取り上げられなかった内容がまとまっている本です。
最後の章にとても引き込まれた話がありました。
河合: (中略)、「何か変だ」というのは、箱の中に入ると、「これはカルマだ」ということで全部きれいに説明がついてしまうわけです。
村上: 全部きれいに説明がつくというのが、この人たちにとっては大事なんですね。「悪」を抱えて生きる P.303 より一部引用
村上: だからオウムの人たちに「飛び出して一人で自由にやりなさい」と言っても、ほとんどの人はそれに耐えきれないんじゃないかという印象を持ちました。みんな多かれ少なかれ「指示待ち」状態なんです。どっかから指示が来るのを待っている。指示がないというのは「自由な状態」ではなくて、彼らにとってはあくまで暫定的な状態なんです。
「悪」を抱えて生きる P.319 より一部引用
企業には、大きく分けて「組織力」で成り立っている会社と、「トップ」で成り立っている会社があります。
いや、全部が全部組織力だろうと思っている人がいるかもしれませんが、それとはちょっと話が違います。例えば、トヨタ自動車のように社長が変わっても経営方針が安定している会社を前者、アップルのようにとてつもなく強いキャラクタが経営を左右する会社を後者としてイメージしてみてください。
僕は20代前半を後者に属する会社にいました。そのときは、自分自身で考えて行動している、そう思っていました。しかし今振り返ると、それは違ったのです。社長の大方針に「従って」…それは、自分自身で持っておくだろうポリシーなどを持たずに、社長の方針を全て基準に行動してきたのです。たとえ、世間一般から見て違和感(反社会的行為とかではありません)があった事柄でも、社長が説明して私が納得していれば、取り組んだと言うわけです。
だから、今とても苦労しています。自分自身で、方針を立てて行動することがとても難しい。最後は理論、言い換えれば理屈では解決できないことが山のようにあるのにも関わらず、一般論や事例などで判断してしまう自分がいました。言い換えれば、自分自身の『判断軸』がなかったのです。
僕は、早く結果を求めすぎてきたのかもしれません。
話がカタくなりましたけど、僕がとても惹かれた2冊をご紹介しました。
『Mobile ゴルフ パンヤ』 大会モード登場
以前も紹介しました『Mobileゴルフ パンヤ』。
11月6日から、au端末向けに複数人とラウンドできる大会モードをリリースしました。

非同期プレイでマイペース
リアルにやるゴルフ、そして多くのゴルフゲームで複数人でプレイしますと、同じ時間にスタートして他の人と代わる代わるショットします。当然と言えば当然ですが、これですと自分が打つ番まで待っていないといけません。リアルなゴルフならいざ知らず、ゲームでやるには時間がとられすぎてしまってなかなか遊べなくなってしまいますよね。
しかし、Mobile パンヤはちょっと違います。非同期なのです。
大会開催受付時間(現在は5時間)以内なら、いつでもスタートできるのです。そして、他の人の打順を待つことなくゲームを進めることができるのです。逆に言えば、自分が打っているときに他の人を待たせない、ということもでもあるのです。
だから、他の集団対戦ゲームよりもより「ゆるい」つながりを持って取り組みことができるんですね。それに、総プレイ時間も短くできます。
もちろん、結果はスコアで評価されることは変わりありません。
そのほかに特別賞も用意していますので、高得点を取れなくてもいろいろな楽しみ方をすることができます。
僕は…開発中にやりこんでいるので「ベストスピーダー賞」ばかりですね(笑)。しかしスコアは悪い :-p
あと、以前は有料会員にならないと対戦ができなかったのですが、10月末より無料ユーザでも105円を支払うと24時間の間に対戦・大会プレイができるようになりました。敷居も低くなっていますので、ぜひ遊んでみてください。
こちらのQRコードからどうぞ!
http://pnya.jp/ (au, docomo)
リリースは楽しい!
サービスのリリースってのはいいものですね。
エンジニアである僕は、泣きたくなるような短期開発、なかなかとまってくれないバグ、そして紛糾し続ける仕様調整に追われるのです。それが、サービスのリリース日まで続くのです。
というか、そんなの8年もやっていれば『たぶんそうなる』ってのはわかってるんですよ。
でも、やっちゃうんですよ。
リリースしたサービスに、反応があることがうれしいんです。
掲示板に書かれたり。
友人・知人に広まったり。
そして、数字になって現れてくるその様が。
その有様全てが、全ての苦労を報いてくれるのです。
リリースは出発点だという人もいらっしゃる。
でも、今日は無事のリリースを祝いたい。
変わりはいくらでもいる、だけど使い捨てじゃない。
僕が社会人になって初めて言われた言葉が、
「君の変わりはいくらでもいる。」
でした。
この言葉は今も僕の中に行き続け、そして自分自身が少しでも人と違った結果を追求していく原動力になっています。
最近、次の記事を目にしました。この後の記事、こちらをお読みいただいてから読み進めていただけると幸いです。
■指導とパワハラの境界(あいだ)[前編]:ITpro
■指導とパワハラの境界(あいだ)[後編]:ITpro
これまでを振り返って照らし合わせると、正直胸が痛む事が次々とよぎります。
確かに、僕も結果が出ない人に対して突き放していたことがあったと。
関わった同僚・部下が結果が出ているときはいいのです。活躍を称え、より高度な仕事を依頼し、そしてそのことを元に自分の結果にもしてきました。チームで結果になれば幸いなことだろうと、信じてやってきました。
一転して、結果が出なくなった彼らに対して僕はどうしたか。きつい言葉を浴びせ、言い訳も聞かず、そして最後は僕自身に仕事を戻してきました。それが、僕自身の責任の取り方だと信じていました。チームメンバーの責任は僕の責任であると。
最近、僕は悪い結果を出してしまいました。
そのとき、とあるセクションの責任者からその失敗を「鼻で笑われる」ことになりました。自分が失敗したとはいえ、正直これには腹が立ったし、何より見捨てられたという感覚を持ちました。なぜなら、セクションこそ違えど、うまく行っている時は評価していただいていた人であったからです。
そんな中、先の記事に出会ったとき、その腹立たしさは懺悔への気持ちへ変わってきました。これは、自分が人に対してした仕打ちが今度は自分に回ってきたのだと思いました。
言い換えれば、因果であるな、と。
先に、「君の変わりはいくらでもいる」と言った上司は、その言葉とは裏腹に辞める最後の1日まで僕を信じて守ってくれていたのだと、今になって思います。その方ばかりでなく、僕が今までついてきたトップの方々は、厳しい側面は持ちつつも最後まで…否、今でもそうかもしれません…僕を信じてくれていたはずです。言葉には表せませんが、そう信じられるものが僕の中にあります。
自分が失敗するのに、人が失敗したときに突き放すなど奢りもいいところ。愚かなことなのです。
だから、僕はこれを通じて、同僚・部下の「成功」ばかりでなく「失敗」さえも愛したい。縁あって自分と関わっている人を、これまで以上に大切にしたいと思います。
