僕が社会人になって初めて言われた言葉が、
「君の変わりはいくらでもいる。」
でした。
この言葉は今も僕の中に行き続け、そして自分自身が少しでも人と違った結果を追求していく原動力になっています。
最近、次の記事を目にしました。この後の記事、こちらをお読みいただいてから読み進めていただけると幸いです。
■指導とパワハラの境界(あいだ)[前編]:ITpro
■指導とパワハラの境界(あいだ)[後編]:ITpro
これまでを振り返って照らし合わせると、正直胸が痛む事が次々とよぎります。
確かに、僕も結果が出ない人に対して突き放していたことがあったと。
関わった同僚・部下が結果が出ているときはいいのです。活躍を称え、より高度な仕事を依頼し、そしてそのことを元に自分の結果にもしてきました。チームで結果になれば幸いなことだろうと、信じてやってきました。
一転して、結果が出なくなった彼らに対して僕はどうしたか。きつい言葉を浴びせ、言い訳も聞かず、そして最後は僕自身に仕事を戻してきました。それが、僕自身の責任の取り方だと信じていました。チームメンバーの責任は僕の責任であると。
最近、僕は悪い結果を出してしまいました。
そのとき、とあるセクションの責任者からその失敗を「鼻で笑われる」ことになりました。自分が失敗したとはいえ、正直これには腹が立ったし、何より見捨てられたという感覚を持ちました。なぜなら、セクションこそ違えど、うまく行っている時は評価していただいていた人であったからです。
そんな中、先の記事に出会ったとき、その腹立たしさは懺悔への気持ちへ変わってきました。これは、自分が人に対してした仕打ちが今度は自分に回ってきたのだと思いました。
言い換えれば、因果であるな、と。
先に、「君の変わりはいくらでもいる」と言った上司は、その言葉とは裏腹に辞める最後の1日まで僕を信じて守ってくれていたのだと、今になって思います。その方ばかりでなく、僕が今までついてきたトップの方々は、厳しい側面は持ちつつも最後まで…否、今でもそうかもしれません…僕を信じてくれていたはずです。言葉には表せませんが、そう信じられるものが僕の中にあります。
自分が失敗するのに、人が失敗したときに突き放すなど奢りもいいところ。愚かなことなのです。
だから、僕はこれを通じて、同僚・部下の「成功」ばかりでなく「失敗」さえも愛したい。縁あって自分と関わっている人を、これまで以上に大切にしたいと思います。