■自分自身そのもの事ってどうなんだろう

時々、自分でブログの過去の記事を追っています。最も古い記事は2000年11月と、12年ほどアーカイブされています。最近になって感じるのが、これまでは「仕事」につなげて話をしていることです。仕事を通じてこれまでを振り返った記事「働き出して10年が経つ これまでとこれから」は今でもしっくり来ています。ただ、仕事を離れた時…一人の男としてどうだったかというと、何かこれといって自分の中に印象がありません。

■寝る前に必ず再生されるダイジェスト

僕は、寝る前に必ずと言っていい程、今日の出来事が頭の中でダイジェスト再生されます。特に、その日に会った人、そして話した内容がかかります。特に、カンファレンスなんかに行くとたくさんの人に会いますから、その量は膨大になります。こうなると、もう気が違えてくるほどです。眠る事なんて出来やしません。

どこでひっかかるか。それは「あの時自分がこう話した事は正しかったのか」ということです。何もしゃべらないと意味はないのですが、しゃべったらしゃべったでこうなる。ものすごく、後で怖くなります。自分では理屈の上では立証できているのに、心ではとても怯えているのです。どこかで、自信が無い自分がいます。

■恋愛は僕の人生を邪魔する、と思っていた。

最近、FBShare で流れてきた「IT系の男となんか絶対付き合いたくないよ!」っていう記事が目に入った時、あっ、自分の事ではないかと気づきました。

ブログには書いていませんが、20代の時に何回か失恋しました。最後に…もう5年になります…つきあった子に別れ際に言われたのが「祐一郎はずっと仕事を見てる。私を見てくれはいなかった。」でした。その時は、僕は自分で正しい事をやっているのに、何故こんな事を言われなければならないのか?そんなのはおかしいじゃないか!と心の中では怒りました。これまで、ひき目を感じながら「これでも足りない、これでも足りない。」とやってましたから、仕事で成功する事が自分にとっての成功であるかのように考えていたのです。それを否定された気がした事が、辛かった。

それ以降、20代後半の頃は恋愛は僕の人生を邪魔するものだと、心の奥で信じるようになりました。だから、口では「彼女出来ないんだよねー」といいながらも、何かと敬遠し続けていた自分がいます。仕事に集中しよう、結果を出そう、そして一山当てようと日々生きていたのです。

自分だけを見る事に必死で、他の誰かを見る余裕が僕には全くありませんでした。

■人は自分を映す鏡

ここ数年、コンピュータ技術者ではない友人が増えました。知人ではなく、友人です。悩みをお互いに話したり、明日どうやって行くかを前向きに議論する、そんな仲です。特に、社会人大学院で出会ったクラスメイトとは、講義の落ち着きとは反比例してよくつきあうようになりました。

友人のほとんどはコンピュータ技術者ではありませんから、僕のこれまでの仕事の実績というのはあまり関係がありません。あったとしても、講義に出てきたコンピュータ関係の難しい話をちょっと話す時に使える程度。一人一人、自分自身そのものを自然と出しながら話をする姿を見て、そして話を聞いていると、ふと「あれっ?」と思うようになりました。

これまで負い目を感じていた事は徐々に収まってきています。でも、やっぱりまだ言葉の端々に出てしまう。そういったとき、すかさずクラスメイトは僕に指摘します。その気持ちが君自身の今後にとってよくない、すぐにでも捨てろ、と。人として仕事で差別化するのは、とても限定的な事なんだと知りました。

友人が別の友人に接する姿。そして友人が僕に接する姿。いろいろ見続けていると、今の自分がどうなのかが鏡のように見えてくるようになりました。とはいっても、まだはっきりではないのですが。

■自分は少し特別

ポジティブな意味でも、ネガティブな意味でも、僕は少し特別なんだと考えるようになりました。

ポジティブな所は、いいですよね。もう散々書いたし。仕事はうまく行っています。

ネガティブな所は、人が苦労している所を、自分が苦労した事がないこと。それを感じた最も身近な出来事は、昨年の震災直後に東京に出てきて1年間一緒に過ごした弟の就職活動です。次の仕事を探そうと、しこたま電話をかけ、履歴書を送り、面接に通っているのにも関わらず、なかなか仕事の内定がもらえない姿を見ました。もちろん、兄として相談に乗ったりしましたが、なぜここまで必死にやっているのにも関わらずどこの会社も見向きもしないのか、こんなにいい男じゃないか、どうしてこうなるのか、と。

今、弟はちゃんとした仕事を見つけ、自分でしっかりとしたマンションに住み、会社でもうまくやっているようです。もともとナイスガイだから、そこは全く心配していませんでした。少なくとも、僕と比べたら人を大切にできる人であると自信を持って推薦します。僕には2人の弟がいますが、一番年が近いこの真ん中の弟が僕ら家族をきちんとまとめていると言っても、過言ではありません。

多くの人はこう言う事に気を配ります。しかし、これまではそういうことに無頓着だったのが、僕でした。

■自分自身を表現する

僕の今の上司は言います。「斎藤は優しい男だ」と。一見、いい言葉のように聞こえます。しかし、いい人に収まる人は、たいてい印象には残りません。ではどうすればいいのか。正直、僕はさっぱりわかりません。もしできるとしたら、1年前に腹をくくって東京に出てきた弟に寄り添いながら応援したことと、同じ事くらい。とはいえ、今度はもう少しうまくできると思います。

そんな事を考えている時、板倉さんは言いました

あの当時のように計画などに縛られない不意に訪れる今を大いに楽しむ心を忘れないで居るそれは、特別なおとなの遊びの構えではないだろうか。

誰かと一緒にいる時、寄り添い、そして今を共に楽しむ仲である事。そうしているうちに、何か見えてくるかもしれません。たぶん、その点については、最近になって祖父がヒントをくれたんじゃないかと、考えています。